悟楽  第93号より

広島県老人福祉施設連盟 広報委員会が発行しております「悟楽 第93号」にケアハウスまごころ半明原に入居されております青野春水様の投稿文が掲載されましたので、この場をお借りしてご紹介させて頂けたらと思います。

 

↓↓以下投稿文↓↓

題名:弥山・厳島神社と私

投稿者:ケアハウスまごころ半明原入居者・青野春水(91歳)

 

私が心から弥山や厳島神社などに関心を持つようになったのは、腸の手術から退院した時、半明先生から僕のところで養生しないかと言われ、ケアハウスまごころ半明原に来て、3度目の部屋306号室に代わってからである。

僅かな荷物を運んでもらい、窓を開け、ベランダに出て驚いた。真正面に弥山があり、その麓の海には、厳島神社と大鳥居(世界遺産)が見え、更に東に目を移すと、西に弥山(厳島)・大黒神島などと、東に能美島・江田島などで造る海峡が、私に尾形光琳(元禄期中心に活躍)作、紅白梅図屏風(最高傑作)の紅梅(右)と白梅(左)の間に画かれた水流の屏風絵を瞬時に思い出させ「あった、これだ」と叫び、荷物を運んで下さった事務職員を驚かせてしまった。おそらく光琳は、半明原でこの海峡を見つけ、あの屏風絵を完成したのだと私は思いたいのである。

自然は面白いもので、風景の題材等は勿論、そうでなくともどこかに似たもの、場所等があるものだと思って嬉しくなった。それに似たようなことは、弥山の稜線を見た若き日の弘法大師(平安初期)は、釈尊の涅槃図と想像し、ここに大聖院を造った。更に平清盛(平安末期)は、ここにあった以前の神殿造厳島神社を、現在の同神社の原型となる平安貴族の寝殿造りの庭にある池を海(瀬戸内海)に換えて、飾った船と共に浮かばせたこの発想は、彼が安芸守となり領内を巡回していくなかで思いついたものであり、この三者の物を造る発想は、目的は違っても、明快な目的と感受性を持ち、それを探し続けることであろう。

その意味で弥山は、廻りの環境を含めて「あった」と叫んだ人を常に出し続けている神仏の山(鎌倉時代までは人は住まなかった)であり、無意識のうちに両手を合掌し、般若心経の言葉「照見五蘊皆空度一切苦厄」を唱えていた。秋空の澄み切った静かな306号室の今日此の頃である。

令和2年10月22日

※HPへの本名記載に関しまして、ご家族の了承を得ております。